航空自衛隊の中の航空総隊に隷属し、自衛隊機の墜落事故などが発生した際、 その機体・乗員の捜索、救助活動を主たる任務とする一方、救助要請(災害派遣要請)にも対応し直ちに活動を開始する『航空自衛隊航空救難団』。 その救難錬度の高さから「最後の砦」と形容される。
航空自衛隊 航空救難団 松島救難隊
ブルーインパルスのホーム基地として知られる松島基地は、宮城県東部に位置し仙台市から北東約30kmの距離にあり、周辺には気仙沼、石巻、塩釜港等の漁港が多く、松島救難隊の救難要請で最も頻度が多いのは漁船乗組員の急患空輸である。基地近隣には日本三景の松島やその東端の奥松島など美しい景勝地が数多く点在しているが、昨年の大震災ではその穏やかで美しい海が周辺の町や基地を襲い、この辺り一帯に甚大な被害をもたらした。そのような状況の中、松島救難隊はどのような活動を行ったのか取材した。
大震災発生後、地震と津波により壊滅的な被害を受けた格納庫や器材庫では、ただひたすらに復興をめざし、
ヘドロで汚れた床を拭き、残された装備品をひとつひとつ手で磨く作業が、毎日のように繰り返し行なわれた。
平成24年11月22日木曜日、天候は晴れ。仙台と石巻を結ぶこの辺りの主要路線であるJR仙石線は未だ復旧されていない箇所があり、仙台から仙石線と途中の代行バスを乗り継ぎ航空自衛隊松島基地の最寄駅矢本へと降り立った。矢本駅周辺は当時大きな被害はなかったようだが、ここへ至るまでのバスの車窓からは震災当時の痛々しい爪痕がまだ多く見られた。
東松島市では市街地の約65%が浸水し、市内の家屋10,000戸以上が全壊又は半壊等の被害を受け、犠牲者は千人以上にも達した。その東松島市内の沿岸部に位置する松島基地は、メディアでも多く取り上げられた通りその被害は甚大なものであった。 松島基地に到着すると正門ゲートの守衛所の柱に津波ラインという線が刻まれており、津波到達水位が一目瞭然となっている。およそ成人の頭の高さくらいはあるその線は、津波の大きさをありありと物語っていた。
目的地の救難隊庁舎へ着くと松島救難隊隊長佐々野二等空佐がお忙しい職務の合間をぬって丁寧に対応してくださった。救難隊のオペレーション室へと案内され、隊長自らプロジェクターを使いブリーフィングが開始された。
3月11日午後大地震発生、その後の津波により救難隊は愛機のU-125A救難捜索機2機とUH-60J救難ヘリコプター4機を水没で失い、基地全体も停電、通信機能が麻痺し外部との連絡が遮断された。翌朝12日、真っ暗な隊舎で一夜を明した隊長以下80名余りの隊員達は日の出とともに残された人力だけで出来る活動を開始する。機体は失ったが、目の前にいる士気の高い隊員達を前に、隊長は必ず自分達にできることがあると確信した。
隊長の判断でこの隊員の中から何名かを選抜し、救難物資輸送のため入間から応援に来ていたCH-47Jに彼らを搭乗させた。選抜された救難員はその後、百里救難隊へ合流、その指揮下で救難活動を行った。
一方、松島基地に残った救難員は水没を免れた潜水用のドライスーツを着込み、ボートを漕いで、翌13日から物資の搬送や、近隣の小中学校などで孤立する住民の救出活動を開始し多くの住民を救出した。
松島基地は隊員達の決死の復旧作業により15日には滑走路が使えるようになり、救難隊は20日からオペレーションを再開、翌21日にはUH-60Jが2機配備され本格的な運用を開始した。
その後も救難活動や物資搬送、地震偵察に従事し、4月1日から3日間実施された宮城県沖沿岸部等集中捜索では松島救難隊の指揮下で19名のご遺体を発見した。そして8月31日大規模震災災害派遣は終了し、部隊は通常任務へと復帰した。
これら一連のブリーフィングを終えたところで、ある1本のDVDを観せていただいた。
それは震災発生の混乱から復旧までを一人の救難員が決死の思いで撮り続けたビデオ映像だった。そこに映し出されていたのは、今まで私たちが目にすることのなかった想像を絶する真実の物語であった。この隊員が感じた恐怖や不安、被災者を救いたいという思い再生へ向かう強い気持ちなどが画面を通して私たちの胸に訴えてくる、迫真の映像である。
14:46、震度6強の激しい揺れが何の前触れもなく突然襲う。まもなく津波警報が発令、救難員は自らの判断で、自分達が避難する前にまず器材庫へ走り彼らにとって体の一部とも言える大切な装備品を水没から守るため急いで車両に積み込んでいく。この咄嗟の行為が後の救難活動に大いに役立つこととなる。走りながら撮影しているので画面は上下左右に揺れ、動きが定まらず、緊迫した様子が伝わってくる。
場面は変わり、部隊全員が避難した内務班隊舎の映像に切り替わる。隊員達は様々な表情で携帯電話を片手に家族の安否を確認している。この時はまだ被害の全容は明らかになっていないが隊員の中には家族を失った者もいた。
降りしきる雪の中、泥流となった津波は基地内の車両や建屋を容赦なく押し流していく。明かりもなく真っ暗になった隊舎の中で佐々野隊長が隊員達の輪の中心で皆を鼓舞していた。
“我々はこのような時の為に存在すると言っても過言ではない、とにかく出来ることからやろう”
そうしてここから松島救難隊の、言葉通り不眠不休の活動が始まったのである。
あの日から1年8ヶ月が過ぎた救難隊の器材庫を私達は見学することができた。
一見すると装備品が整然と揃えられており、そこに津波が押し寄せたとはとても想像できない。しかし、確かにあの日、そこには津波が濁流となって押し寄せたのだ。
その中から隊員達はカラビナを一つ一つ拾い、泥を落とし、磨き、元の状態に戻すため懸命に活動した。これら海水に浸かったカラビナは命に関わる所では使用できないので道具を吊り下げるなど使用用途は限られてしまう。それでも彼らは大切な装備品を拾える限り拾い、丹念に泥を落としていったのだ。
今現在、充分とまでは言えないが出動命令が下れば即座に活動できるよう必要な装備は整えられている。
航空機はUH-60Jが1機しかなくここでは思うような訓練ができていないが、隊員が他部隊での訓練に参加して救助の練度が落ちないよう日々励んでいる。
最後に、この時器材庫を案内してくれたメディックの一人に、大切な資器材が流された当時はどのように感じたかと聞いたら、彼は、ただ驚きそしてがっかりしたとその胸中を語ってくれた。
自分達の資器材が無残に流されていくのに自分は何も出来ず、そんな自分にがっかりしたのだと。しかし彼らは決して何も出来なかった訳ではない。“出来ることをやろう”あの時隊長が言った言葉を忠実に守り抜き、出来ることをひたむきにやり続けた結果、数々の命が救われた──そして、今があるのだ。
(2012.11)
航空自衛隊 航空救難団 松島救難隊の皆さま、取材へのご協力ありがとうございました。